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ルーシー・モード・モンゴメリ(1874−1942)はプリンスエドワード島の(現在はニューロンドンと呼ばれる)クリフトンでヒュー・ジョン・モンゴメリとクララ・ウルナー・マクニールの娘として生まれました。母親はモードが1才9ヶ月の時に23才の若さで亡くなり、モードは母方の祖父母であるアレクサンダーとルーシー・マクニールによってキャベンディッシュにあるマクニール農場に引き取られました。モードは漁業と農業が主体の海辺の村で育ち、そこにある海岸や森、野原そして家々をすべて知り尽くしていました。
1890年にモードはサスカチュワン州プリンスアルバートに父親とその再婚相手に会うために−おそらくは一緒に暮らすために−呼び寄せられました。モードは列車の旅を楽しみ、西部滞在中には何人かの素晴らしい友人にも出会いました。彼女の作品が初めて活字になったのもここでしたが、義母との関係はうまくいきませんでした。島へのホームシックが募ったこともあり、モードは1891年に島に戻ってきました。しかし、彼女はカナダの広大さと美しさへの畏敬の念を失うことは決してありませんでした。
1894年にモードはシャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(
)を卒業し、一級教員免許を取得しました。卒業式でシェークスピアの「ポーシャ」に関するエッセイを披露したところ、参列者はその素晴らしさを褒め称えました。モードはまずプリンスエドワード島のビデフォードで教鞭をとりました。そこでは、大人数のクラスを担当しなければならなかったにもかかわらず、モードは大変満足していました。数人の青年から求愛され、楽しい時をすごしたことが彼女の日記に記されています。その年の冬にモードが下宿していたビデフォード牧師館は、彼女の功績を称えて現在は博物館になっています。
モード・モンゴメリは教師になって1年間で、ハリファックスのダルハウジ大学でなんとか1年間講義を受けるための資金を貯めました。英文学コースが作家としてのキャリアに役立つだろうと考えてのことです。ハリファックス滞在中に自作の詩で初めて原稿料をもらい、新聞社の作文コンテストで受賞しました。その後モードは島に戻り、ベルモント16番地で2度目の教壇に立ちました。しかしここでは彼女は生徒たちとの触れ合いにも、自身の生活にも喜びを見出すことができませんでした。モードはひそかにいとこのエドウィン・シンプソンと婚約しましたが、すぐにこの決断を後悔し始めます。翌1897年、エドウィン・シンプソンの紹介でプリンスエドワード島のロウアーベデックで教員の職を得ました。彼女の日記には下宿先の息子であるハーマン・リアドへの情熱的な想いが書きつづられています。当時リアドは婚約していましたが、それはモードも同じでした。1898年に祖父が亡くなったために、モードはキャベンディッシュに戻り、(翌年に亡くなった)リアドと別れ、教師の職からも離れます。モードはエドウィン・シンプソンとの婚約を解消し、それから13年間、郵便局で祖母を手伝いました。
ハリファックスの新聞社「デイリー・エコー」で(1901年から1902年にかけて)記者として働いた10ヶ月間以外は、モードは祖母ルーシー・ウルナー・マクニールが1911年に亡くなるまで祖母と一緒に暮らしました。キャベンディッシュでは、写真を撮ったり、Cavendish Literary Magazineの製作を手がけたり、スクラップブックと日記を書きつづり、詩と短編小説を創作して出版するなど忙しい日々を送っていました。彼女は作家として生計を立てたいと野心を抱いていました。この頃、執筆活動を通じて広範囲にわたる友人ができました。そのうちの3の人、(名前が似ていることから知り合った)マサチューセッツの高齢の作家であるルーシー・リンカーン・モンゴメリと、1902年に文通を始めたアルバータの作家志望で教師のイフレイム・ウィーバー、そして1903年に文通を始めたスコットランドの若きジャーナリストで作家志望のジョージ・ボイド・マクミランとの友情は長年にわたりました。マクミランとの文通が始まった頃には、モードは不自由なく生活できるだけの原稿料を得ていました。
1902年にモードは2つの大切な友情を育みました。その1つはキャベンディッシュの教師であるノラ・ルフルジーとの友情です。ノラは1903年の冬にマクニール家に下宿しており、彼女についてモードは大胆でユーモア溢れる日記を残しています。ノラは1904年に島を離れましたが、1920年後半にモンゴメリがトロントに移り住んだ時に、再び彼女の人生に登場します。そして2人は旧交を温めました。もう1つはモードのいとこであるパークコーナーに住むフリード・キャンベルとの友情で、モードが幼い時から知っていたにもかかわらず、大人になって突然「気づいた」友情でした。2人は大の親友となり、1919年にフリードを亡くしたことはモードにとって生涯の悲しみとなりました。
1903年、キャベンディッシュに長老派のユーアン・マクドナルド牧師が赴任しました。1906年、ユーアンがエディンブラで勉強するために1年間カナダを離れる時に、ユーアンとモードはひそかに婚約しました。モードは故郷に残るために祖母のそばにいようと決心しましたが、そのために2人はその後5年間結婚することができませんでした。同時に、モンゴメリは実入りのよい短編小説の創作から離れて、長編小説の執筆に時間をついやそうと決めました。「赤毛のアン」は数社の出版社に断られたのち、ついにボストンのL・C・ペイジ社に受け入れられました。1908年に出版されると、この小説はたちまちベストセラーとなりました。ペイジ社との契約は長年モードを束縛し、1910年に同社を訪問したモードはいやいやながらもその契約を更新しました。
「赤毛のアン」によってモードの人生は変わりました。突然著名人となった彼女にファンレターが舞い込むようになりました。ペイジ社との契約で定められた印税は低かったにもかかわらず、当時としては莫大な収入を得ていました。フリード・キャンベルのためにモントリオールにあるマクドナルド・カレッジに2年間の受講料を出資し、1911年の彼女自身のハネムーン資金を支払っても余りある収入でした。その後、モードは生涯にわたって有名な売れっ子作家となったのです。
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